先週の日曜日、私は義理の兄である方の葬儀ミサに参列しました。ミサを担当した若い神父は故人との親密さがあったのか、故人と子供たちの間の信仰の問題で困難があったという点を紹介しました。
極めて私的な家族間の個人的な史実なのに、公の場で話すのを見て驚きました。
おそらく担当神父は公開しても構わないし、またそれなりに教訓的な意味もあると考えて、公的な葬儀ミサの時間に紹介したものと推測します。
親と子供の間、最も近しい愛情深い関係ですが、特に父と息子の間は、どの家庭でも信仰とは別に、コミュニケーションが円滑でない傾向があります。
ところが時折、牧会者の子供と、いわゆる篤信なカトリックまたはキリスト教徒の親と子供たちの間に信仰による葛藤を見ることがあります。なぜだろうか?
これまで大韓民国のすべてのカトリック、キリスト教教会が、人の目に見える聖殿、つまり建物と典礼、そして奉仕を中心に教会生活及び信仰生活をしてきた点が、おそらく最も大きな葛藤要因の一つでしょう。
旧約聖書でも、エホバ神は燔祭よりも従順が良いとおっしゃいました。(サムエル記上15章22節)
サムエル記上15章
22. するとサムエルは言った。「主は、あなたの御声に聞き従うことを、燔祭やいけにえをささげることよりも喜ばれるのだろうか。見よ、従順は、いけにえにまさり、みこころに聞き従うことは、雄羊の脂肪にまさる。(新共同訳)
これは、祭祀や宗教儀式そのものよりも、神の言葉に従う生き方をより重要視するという意味です。
しかし、ほとんどの親世代は、信仰生活を熱心にすること自体が、聖書の言葉に集中して、その意味を理解し、その意味に従って実践することに注力するより、聖殿の建物を中心とする、つまり典礼または慣例にのみ偏ってきた傾向があります。
それでいざ自分の子供たちに、生命と光の真理の言葉を教え、自分の人生を通して主に出会う体験、またはこれを証明する人生を疎かにしました。そして自分の子供たちには、無条件に聖堂または教会で捧げるミサまたは礼拝への出席を強要するようなことが、いわゆる篤信な信仰家庭の一面であるかもしれません。
新約聖書(ヨハネによる福音書2章19~22節)を見ると、イエスは、この聖殿を壊し、三日のうちに、新しい聖殿を建てると言われました。
ヨハネによる福音書2章
19. イエスは答えて言われた。「この神殿を壊しなさい。わたしは三日のうちにそれを建て直します。」
21. しかし、イエスが神殿と言われたのは、ご自分の体のことでした。
22. イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの言葉を信じた。(新共同訳)
イエス様は十字架で死んだ後、復活することで、ご自身を通して神と人間が出会う真の聖殿になることをおっしゃったのです。
真の聖殿は、イエスがおっしゃった光と生命の真理の言葉を土台に建てられた聖殿であり、この聖殿がいわゆるイエスに従う人なら、自分の心にこのような聖殿が建てられなければなりません。
イエス様は弟子たちに、ご自分が死んだ後、真理の霊である聖霊を送ると言われました。神は聖書の言葉の中にいらっしゃいますが、同時に人の目には見えない霊としてもいらっしゃいます。
この聖霊が私たちの中にいなければ、人が新しく生まれ変わり、いわゆる神の属性である清さ、つまりこの世の価値観と区別されることを回復できます。
そうでなければ、真に生きている人生を享受できず、どんなに困難な苦難が迫っても、これを克服し、未来の希望を抱くことができます。これは、生老病死を超越する次元と、虚無を遺さない人生を意味することができます。
「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。子供のころから身についた習慣や行動は、年をとっても直すのが難しいという意味です。この言葉は、どんなに行動で信仰生活を熱心にしても、親から受け継いだ性格または貪欲さなど、悪いものは努力してもなかなか直せないということです。
結局、外形的な信仰生活よりも、内的(内的)に神の言葉を通して神を知る知識を習得した後、その方の心を理解するレベルに達したとき、神または主の聖霊が人の心の中に宿り始め、その人を変えていき、新しく生まれ変わらせることができるということです。
親が家庭でその子供を養育し、世話をし、このような信仰生活の姿を見せる時、その子供もまた、その親をなぞり、この信仰がその子孫のための真の遺産となるでしょう。
2025. 10. 15 参길
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