10月27日は、マルティン・ルターの宗教改革507周年を記念する日曜日です。
一部の歴史批評家は、「16世紀の宗教改革は、キリスト教の教義的な改革であったに過ぎず、クリスチャンの生活を改革することには至らなかった」と批判しました。教義的な改革である「唯恵」(Sola Gratia)、「唯信」(Sola Fide)、「唯聖書」(Sola Scriptura)は名目だけが残っており、むしろ教会とクリスチャンの生活は「唯権力」(Sola Regnum)、「唯物質」(Sola Mammona)、「唯名誉」(Sola Honoris)により一層燃え上がっています。
10月31日は、1517年10月31日、ルターがドイツのヴィッテンベルク教会堂の門に95ヶ条の論題(Thesis)を掲示し、宗教改革の火をつけた記念日です。また、カルヴァンはアウグスティヌス以降の改革教会のモットーである「教会は常に改革されなければならない」という表現の意味を改めて強調し、ジュネーヴ聖市化運動の基礎となりました。しかし、これに対して今日の韓国教会は、「教会は決して改革の主体ではなく、改革の対象である」というその基本的方向性を失って、もがいています。(出典:ライフ・グッド・タイムズ、https://www.lifegoodtimes.com)
ルター時代は印刷術が発達していなかったため、カトリックの神父など教会指導者だけが聖書を所有し、閲覧することができました。一般の信者は、神父が伝える説教ミサを通してのみ、聖書を聞くことができました。
ヨハネによる福音書1章
1. はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
4. その中に命があった。命は人の光であった。
言葉が神であるのに、根本的に一般の信者は直接主と交わる機会がありませんでした。既にカトリック教会は、イエス様が言われた盤石の上に建てられた教会ではなく、宗教の一形態、組織に堕落したと言えるでしょう。
イエス様は「この岩の上に、私の教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われました。この言葉には、教会と岩という2つの重要な単語が登場します。教会という言葉が聖書で初めて言及されています。そして、その教会をこの岩の上に建てようと言われました。
では、岩とは何でしょうか?人間ペテロではなく、ペテロが告白した信仰告白が岩なのです。「あなたはキリストです。生ける神の子です。」(マタイ16:16)イエス様を主と告白したペテロの信仰と告白の上に、主は教会を建てようと言われたのです。
したがって、イエス様を主と告白する人々が存在する限り、主の教会は崩れることなく、永遠に陰府の権勢が勝つことはありません。したがって、真の教会は、いかなる制度や建物や人物や宗教行為の上に建てられるのではなく、イエス様を主と告白する信仰の上に建てられなければなりません。
(出典 https://www.kmib.co.kr/article/view.asp?arcid=0923505764、チェ・ワンソク牧師、国民日報、2016年4月21日)
16世紀、教皇レオ10世に至って、教皇庁の負債と聖ペテロ大聖堂の修復と改築のための費用を賄うために、免罪符を販売するというとんでもない現実の中、ルター神父を中心として宗教改革が起こりました。
その後約5世紀が過ぎました。今では信者一人ひとりが聖書を持ち歩いていますが、依然としてカトリック教会は神父のミサ説教、プロテスタントは牧師の説教を通して、大部分の信者と聖徒は聖書の言葉を聞いてそれに依存する信仰生活を送っています。
私が出会う神はその言葉の中にあるのに、いつまで第三者を通して私の霊的な親に会わなければならないのでしょうか?そのような状況で、生ける神に出会うことができるでしょうか?
教会時代の末期に差し掛かり、第二の宗教改革の必要性よりも、信者一人ひとりが目覚めることが重要です。信仰深い主の子らが、言葉の灯りを持ち、直接周りの暗闇を照らし、金、名誉、権力など空しいものに囚われた人々を解き放ち、苦しむ人を助け、その使命を実行することが主の御心でしょう。これは既に旧約時代の預言者を通して宣告されたメッセージでもあります。
イザヤ書58章
6. 私が喜ぶ断食とは、不当な束縛を解き放ち、くびき縄を断ち切り、圧迫されている者を自由にし、あらゆるくびきを打ち砕くことではないか。
7. また、飢えている者にあなたの食物を分け与え、さまよう貧しい者を家に迎え入れ、裸の人を見たら彼に衣を着せ、自分の骨肉を避けずに世話することではないか。
2024年10月27日 真実の道
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